2018年5月9日水曜日

第20回 国際浮世絵学会 春季大会のお知らせ

第20回 国際浮世絵学会 春季大会

2018年6月10日(日)
法政大学 外濠校舎5階S505教室
(東京都千代田区富士見2-17-1) JR・地下鉄市ヶ谷駅または飯田橋駅より徒歩10分
どなたでもご参加いただけます。

9;50 受付開始
10:20-10:30 開会の辞 小林 忠 会長
 浅野秀剛 理事長

午前・研究発表    司会)大久保純一
10:30-11:10 「文政期前後の山水名所題絵入狂歌本の出版とその改題・再印
          -浮世絵風景画流行の前史として-」
         Publication and Republication of Kyôka Books 
         with Landscape Illustrations in 1820s
         : Prehistory of the Landscape Prints Boom in 1830s
                             小林ふみ子(法政大学)
11:10‐11:50 「三代豊国の謎を解く-書簡という鍵-」
           Solve the mystery of SanndaiToyokuni
                             神谷勝広(同志社大学)

11:50-12:50   昼食休憩(第40回理事会)S502教室

12:50-13:30   第20回通常総会             司会)田辺昌子

午後・研究発表                       司会)桑山童奈
13:40-14:20  「西南戦争の文化史的側面-
           西南戦争錦絵および諷刺画の多様性 -」
           Cultural History of Satsuma Rebellion 
                           高橋未来(立教大学大学院)
14:20-15:00 「肉筆浮世絵の裏彩色技法をめぐる史的考察」
           A Historical Study of Urazaishiki (Reverse Coloring)
            in Ukiyo-e Paintings
                             廣海伸彦(出光美術館)

15:10‐15:20 第12回国際浮世絵学会賞授賞式     司会)加藤陽介
学会賞受賞者:藤澤紫氏、山尾剛氏
選考経緯ならびに国際浮世絵学会賞授与     小林 忠 会長

第12回国際浮世絵学会賞受賞記念講演
15:30-15:50 「雑談」                                      山尾剛氏(美術店 絵草子)
15:50-16:30    「愛される「美人画」―暮らしとメディア文化―」
                             藤澤紫氏(国學院大學)

17:00- 懇親会        司会)村瀬可奈・西田亜未
会場:市ヶ谷GRATOR(総武線市ヶ谷駅より徒歩3分)
        千代田区九段北4-3-14 市ヶ谷グラスゲート 1F



【大会参加費】 会員は無料です。受付で本年度の会員証をご提示下さい。
        一般の方も歓迎いたします。事前予約不要です。
        当日受付へお越しください。一般\1,000、学生\500
【懇親会参加費】国際浮世絵学会 会員\5,000、一般\6,000、学生一律\3,000







【研究発表要旨】

文政期前後の山水名所題絵入狂歌本の出版とその改題・再印
―浮世絵風景画流行の前史として―
 Publication and Republication of Kyôka Books with Landscape Illustrations in 1820s
: Prehistory of the Landscape Prints Boom in 1830s
小林ふみ子(法政大学)

北斎や広重に代表される天保期の風景版画ブームを先取りするものとして、文政期に風景画を挿絵とする絵入狂歌本やその板木を利用した絵本の出版が盛んに行われた。もちろん墨摺のものもあるが、色板を数枚用い、なかには空摺などの技法も駆使した美麗な本も出されている。岳亭定岡画の『山水寄観狂歌集』(文政3-6年頃刊)が『一老画譜』に作り替えられたことは比較的よく知られた例であるが、他にも北渓画『狂歌扶桑名所図会』(文政7年刊)が4度の改題を経て微妙に摺りに手を加えながら出版され続けたことは、その最たる例といえる。そのことは、風景画を挿絵とする狂歌本・絵本に十分な需要があったということを示す。保永堂版東海道五拾三次の序文が狂歌判者四方滝水米人の手にかかることを考えると、風景版画の出版にあたって版元が狙った購買者層は、こうした全国の狂歌師たちであったのではないかという推測が可能になる。
狂歌に詠まれて描かれた風景には、名所や宿場など特定の場所も少なくないが、名もない山河が多く対象になり始めるのもこの時期のことである。その背景には、18世紀後半に発達した文人趣味において山水を描き、詩に詠むことが、観念の世界だけでなく、現実に山地や郊外を遊歴する行為とつながったことがあろう。この時期に狂歌も漢詩もともに享受者層が地域的にも階層的にも拡大し、そこには当然、交渉や影響関係がある。広重の風景画に文人趣味が底流することが近時論じられたが(佐々木守俊「広重の中国趣味」『美術フォーラム』34号 2016年)、それは漢詩人たちとも交わり、ときに重なり合った狂歌師たちの要請にも適うものであった。風景はこうしたフィルターを通すことで、いわば文雅の世界に昇華され目に見える以上の価値を帯びることになることに言及したい。


「三代豊国の謎を解く―書簡という鍵―」
Solve the mystery of SanndaiToyokuni
神谷勝広(同志社大学)

 三代歌川豊国(1786~1864)は、初代豊国の門に入り、国貞と号し、天保15年(1844)、五十九歳で豊国を襲名する。大久保純一「歌川国貞の画業」(『別冊太陽国貞の春画』、平凡社、2018年)では、三代豊国は晩年「気力・体力の衰えを」嘆きつつも「錦絵揃物を多数」「円熟し」「かつ緊張感をもった筆致で描き上げた」とする。ここに疑義を感じる。気力・体力が衰退する中、なぜあれほど高い水準で大量の作品を生み出せたのか。
 その謎を解く鍵は、従来未紹介の書簡に存在した。版元広岡屋幸助宛三代豊国書簡1通(早稲田大学図書館蔵)、弟子国明宛三代豊国書簡7通(同志社大学図書館蔵)、顧客川喜田石水宛二代国貞書簡1通(石水博物館蔵)を取り上げる。それらから、➀三代豊国は彫師(特に彫竹)を信頼していたこと、②国明が三代豊国を支えていたこと、③富裕な顧客を持っていたこと、などが判明する。個人として衰えを感じつつも、秀逸な作品を多数生み出しえたのは、優れた弟子や彫師などを身近に揃えていたことによろう。三代豊国は、関係者を含めた総合力によって高い水準で大仕事を成し遂げていたのである。もちろん総合力を維持するには、経費がかかる。したがって富裕な顧客の確保も不可欠といえる。そのような顧客へもきちんと対応していたことがうかがえる。
浮世絵に絡む多様な事柄―版元とのやり取り・彫師へのこだわり・弟子の協力・顧客への対応など―にも目を向けることで、浮世絵への理解は一層深まるのではないか。

西南戦争の文化史的側面-西南戦争錦絵および諷刺画の多様性―
Cultural History of Satsuma Rebellion
高橋未来(立教大学大学院)

明治維新から十年という節目に勃発した西南戦争は、誕生から間もない日刊新聞を報道面・販売面などにおいて大きく成長させた。特に東京では大新聞・小新聞が連日戦争の状況を報道しており、その新聞報道を情報源として錦絵、錦絵新聞、草双紙や読本といった書籍類、激戦地を順位付けした番付表など、多様な出版物が出回ることとなった。また報道を下敷きにした講談や説教の流行、西郷らの偽写真、果ては西郷鍋や西郷糖といった便乗商品が登場するなど、“西南戦争もの”の流行は戦地から遠く離れた大都市の人々の生活や文化にも多大な影響を与えていた。
このうち特に錦絵には大判三枚続の判型で大新聞の戦争報道を引用し、西郷ら薩軍諸将の活躍を武者絵のように描いたもの、小新聞の投書欄などに取材し簡易な絵で戦争を茶化して描いたものなど、着想源や表現方法を異にする様々な作品があり、多くの史料が残存している。報告者は全国の所蔵館で行った史料調査で約600種の錦絵を確認し、前者のものを「戦報錦絵」、後者を「諷刺画」と分類するなど、西南戦争錦絵の多様性に着目しこれを近世近代移行期の情報文化に位置づけることを目的として研究を行っている。西南戦争錦絵は近代に入り誕生した新聞と不可分のものでありながら、近世の時事錦絵や戊辰戦争諷刺画の形を大部分で踏襲しており、ここに明治十年という時期の特色が見て取れるのである。
本報告ではこの西南戦争錦絵の様々な類型、及び七ヶ月半に及んだ戦争の中での錦絵の時期的変遷、新聞報道や芝居との関連、そして「西郷星」などの象徴的なテーマに関する典拠調査の結果を、明治初期の錦絵実証研究の一例として提示したいと考えている。


肉筆浮世絵の裏彩色技法をめぐる史的考察
A Historical Study of Urazaishiki (Reverse Coloring) in Ukiyo-e Paintings
廣海伸彦(出光美術館)

文化財の修理はいかなる場合も、作品の損傷をできるだけ緩和し、将来的にそれが進行・拡大するリスクを抑えることを目的として行なわれるが、作業の過程で得られる知見に美術史研究者が学ぶことも多い。この発表では、いくつかの肉筆浮世絵の修理を通じて明らかになった裏彩色技法の実例を報告し、あわせてその機能や意味の質的な変容を問う。
裏彩色の手法は、古代・中世の仏画や肖像画で頻繁に使用されていたことがよく知られるが、近世になって廃れたわけではない。例えば、土佐光起(1617-91)が『本朝画法大伝』(1690年)に筆録し、渡邉崋山(1793-1841)と椿椿山(1801-54)が「襯背」という語をもちいて人物画論を交わしたように、この伝統的な技法は流派を越えて江戸時代の画家たちに認知されたと思しい。浮世絵師も例外ではなく、窪俊満(1757-1820)の『画鵠』(1783年)には、裏彩色をめぐる同様の理解が示されている。
この知識が一定の浮世絵師たちのあいだで共有・継承され、実践に移されたらしいことは、すでにターニャ・ウエダ「肉筆浮世絵の裏彩色」(『國華』第1377号、2010年)などでうかがうことができる。先学が報告するのは、18世紀後半から19世紀に活躍した浮世絵師たちの事例だが、彼らに先立つ画家たちがこの手法に無知だったわけではない。ここでは、新たに菱川師宣(?-1694)などの使用例を紹介しつつ、時代間の機能的な差異や傾向について仮説を述べる。すなわち、単色で均質な賦彩を裏面に重ねた前代の画家たちに対し、描かれた対象の真に迫るべく、裏彩色にきわめて複雑な技巧を凝らしてみせたのが、勝川春章(1743-92)や葛飾北斎(1760-1849)とその門下の画家たちではなかろうか。
端的にいって、肉筆浮世絵の裏彩色技法をめぐって18世紀後半に起こったのは、実用から表現への転換というべき変化である。その具体相を探る試みは、この重要な画期に立ち会ったはずの春章について、あらためてその意義を強調することにもなるだろう。